江戸時代に編集された尾張資や尾張名所図会の綿神社(元志賀町)の項に1784年(寛政4年) 三郷悪水(新川を掘ったとき貝の殻が沢山出て土地の貝塚と呼んだと記されている。
昭和初期、志賀公園の池を造成中に弥生中期から鎌倉時代に及ぶ、土器、土師器、須恵器が出土し弥生時代や古墳時代のものと判明、志賀貝塚の名が考古学で有名になった。
純然たる沖積地にあり中心部は西区貝田町である。弥生文化の前、中、後期の前期にわたる遺跡で出土品が豊富である。出土した土器や骨角器などに縄文文化的要素が強い事から北九州から東に進んだ弥生文化がこの土地に占める尾張地方の位置と特徴や弥生時代前期の編年のモデルになる。